<潜>
朱鷺は、若干緊張した面持ちで広間の中央付近に正座していた。
暫くすると朱鷺の左手の障子襖が開かれ、身分の高そうな女性が侍女二人を従えて静々と歩み入ってきた。
すぐさま朱鷺は腰を折り、指を畳に付け頭を垂れた。
目上の者と相対する際、許しがあるまで顔をあげないのは、武家の当然の作法である。
入ってきた女性が、上座に腰を下ろす。
そして、
「良いぞ、面を上げて良いぞ。」
と、朱鷺に声を掛けた。
穏やかではあるが、少しきつい感じの口調だった。
この女性は、藩主・鍋島斉正の側室・お万喜の方であった。
朱鷺はゆっくりと顔を上げ、気取られぬよう気遣いながら、初めて見るお万喜の方をじっくりと観察した。
確かに、美しい。
小藩とはいえ、藩主に見そめられて側室に成り上がった女である。
三十を超えたとは思えない肌艶、綺麗に結われた黒髪、そして利発そうな眼差しとどれをとっても一級品であった。
しかし、その美貌ゆえかきつい口調のせいか、少し冷たい感じを受けた。
「そち、名はなんと申す。」
お万喜の方が、朱鷺に問う。
「トキにございます。」
「ふむ。して歳は。」
「この春で、十八になりました。」
朱鷺は、凛とした口調で答えた。
しかし、これは嘘である。
朱鷺は、二十歳をもう二年も過ぎている。
しかし実年齢では藩邸に奉公に上がるには不自然な年齢だったため、サバを読んだのである。
当時のこの年齢といえば、大方の者は既婚である。
この嘘も致し方なかったのである。
しかし彼女の溌剌とした風貌、そして肌理の細かい肌は十代と偽っても、誰も疑念を抱かなかった。
さらに、お万喜の方が訊く。
「おトキとやら、そちは商家の出と聞くが。」
朱鷺が答える。
「はい、上野は呉服太物を商います、いとう屋の長女にございます。」
商家の娘が行儀見習いのため、付き合いのある藩の屋敷に奥女中として参ったということにしていたのである。
「ふむ、そうか。まあ、心して奉公に励めよ。」
お万喜の方は、そう告げると広間をあとにした。
しばらく一人取り残された朱鷺は、お万喜の方の印象を振り返りながら、この度自らに課せられたご下命を思い起こすのだった。
時は、天保年間。
水野忠邦による改革が一見功を奏しているよう見えたが、時代は幕末の混乱にさしかかろうとしていた。
九州は肥前の国、鍋島家を藩主とする肥前藩の江戸家老、神代鍋島家の当主・鍋島典膳とお万喜の方が結託し、幕府転覆を企んでいた。
もともと肥前藩は小藩な上、支藩などの存在により財政的には決して裕福とは言えなかったが、現当主・鍋島斉正が進取の気概に満ち、また経済感覚に優れていたことから、いち早く近代工業化を進めたことから一挙に財政状況が好転したのである。
また鉄鋼業なども起こしたことから、幕府に内密で鉄砲の製造も始めていた。
金と武器を手に入れると、人は権力を欲しがるものである。
盛んにお万喜の方は、藩主を謀反へと焚きつけたが、藩主にその気はなく経済高揚だけに執心していた。
そこで、野心の強い江戸家老を巻き込んで、幕府転覆を狙ったのである。
国元で、武器の製造は可能となっている。
あとは、反徳川の幟を上げたときの他藩の同盟である。
お万喜の方は、中国・九州地方の外様の諸大名に書状を送り、いくつかの藩から一大事を構えた際の同盟の密約を得ていた。
肥前藩に謀反の動きありと察知した公儀は朱鷺たちお庭番に、国元での鉄砲製造の証か、他藩からの密約を示す書状の入手を命じたのである。
まず、藩邸に女お庭番を一人潜入させた。
三ヶ月前のことである。
しかし、四日も経たぬうちに”つなぎ”が途絶えた。
次いで、お馬役として一人の腕の立つ男を送り込んだ。
しかしこの男も、行き方知れずとなった。
そこで、お庭番差配の御側御用取次・水野光則は、国元に戻る藩主一行の行列に男女二人のお庭番を紛れ込ませ、藩邸にはお庭番の中でも並外れた能力を持つ朱鷺を遣わしたのだった。
先刻の侍女二人のうちの一人が広間に現れ、
「屋敷内を案内するゆえ、ついて参れ。」
と、朱鷺を呼びに来た。
朱鷺は、すぐさま立ち上がり侍女のあとに従った。
側室の居間、寝間、家老専用の書斎から、厨、厠に至るまで侍女は屋敷内の隅々まで朱鷺を連れまわした。
朱鷺は、部屋と部屋の繋がり具合、距離、そしてどこの廊下が鶯張りになっているかなど克明に記憶した。
通常床板は、"根太木"という床を支える部材に密着させて釘などで固定されている。
しかし、鴬張りの場合は"根太木"と床板の間に僅かに隙間を設け、"鎹"で固定するのである。
このため、"忍び足"で歩行しても、必ず鶯の鳴き声のような音がしてしまうのである。
その夜、朱鷺は夜の見回り組の一人として薙刀を携えて屋敷内を回った。
常夜灯の位置や、寝ずの番の配置を確認したいため志願したのだった。
案の定、家老の書斎近辺は常夜灯や寝ずの番の者の数が多かった。
逆にそれは、大事な”もの”がそこにあることを示している。
見回りから戻った朱鷺は、詰め所で他の女中達と共に褥に着いた。
女中達が、安らかな寝息を立てている中、朱鷺は一人眠らずに居た。
目は閉じていたが、頭の中は目まぐるしく回転していた。
どこまでを廊下で移動する。
鴬張りの廊下の天井裏は、侵入者への備えの仕掛けがあるだろうから、部屋伝いに天井裏を這う。
這うといっても、天井板は薄いため、梁を伝わらなけらばならない。
したがって、天井裏の移動はかなりの時間を要するのだ。
家老の書斎の天井に辿り着いたところで、天井板をずらし殆ど音を立てずに飛び降りる。
近くに寝ずの番が居たとしてても、その者が気に留める心配など一切ない。
鍛錬を重ねた朱鷺の着地音は、猫の足音ほどの音量だからである。
もともとお庭番は、八代将軍吉宗が紀州から連れてきた情報収集を任務とする集団である。
江戸幕府体制の安定とともに、伊賀、甲賀といった忍者集団の力が衰え、吉宗が信頼していなかったため生まれたのである。
その者達の子孫が、代々お庭番として将軍に仕えている。
朱鷺もそんな家系に生まれたのだ。
吉宗の時代には、お庭番は忍びのような特殊な能力は要求されていなかった。
単に江戸市中に出向き市井の暮らし向きを見たり、各藩の領地に物見旅として行き、様子を伺って将軍に報告すれば良かったのである。
ところが少し後の時代からは、お庭番に諜報的な活動が求められるようになる。
各藩、とくに外様の諸大名が良からぬ企てを行うようになったからだ。
幕府は、将軍家の鷹狩場内にお庭番の鍛錬所を設けた。
お庭番の血筋の者に、幼児期から教育を施した。
基礎的体力・知力に加え、剣術、柔術といった武芸全般、兵法、蘭方も含めた医薬学など、忍びを遥かに凌ぐ修行をさせたのである。
朱鷺もそこで十年以上を過ごし、鍛錬所で最も優秀なお庭番に成長したのだ。
そんな朱鷺である。
特段の備えのない武家屋敷に身分を偽って入り込み、人目に付かぬよう屋敷内を自由に移動し、目的の書状を盗み出すなど極めて容易なことだった。
昼間確認できたわけではないが、家老の文箱は床の間近くだろう。
そこから一通ずつ書状を取り出し、丁寧に内容を改める。
どの大名からの密約状でも構わない。
とにかく、幕府を蔑ろにする意味が読み取れさえすれば良いのだ。
それを懐に収め、来た経路を逆に辿り、詰め所まで戻る。
そして柳行李に隠してきた伝書鳩の脚に結わいて放鳥すれば、ご城内の鳩舎に鳩が戻り密約状が水野光則の手に渡る。
朱鷺は、平然と藩邸を後にすれば良いのである。
時の鐘が、寅の刻を知らせた。
朱鷺が決めていた決行の刻限である。
いくら鍛えた眼とはいえ、書状の内容を確認するには薄明かりが必要なのである。
さらに夜間飛行が可能な鳩とはいえ、夜明け以降の方がその帰還は確かなものになるからである。
女中達全員の寝息を確かめると、朱鷺は全く音を立てず詰め所をあとにした。
足音もなく、廊下を家老の書斎に向けて進む。
常夜灯のある辺りは、とくに慎重に人の気配を伺う。
しばらくすると、鴬張りの廊下に至る。
そのすぐ手前で、襖の向こうの音に耳を澄ます。
屋敷内を案内した侍女の寝間である。
朱鷺は、安定した寝息を確認するとすぐさま部屋に忍び込む。
欄間に手を掛け、天井に張り付いた後は、ゆっくりと天井板をずらし天井裏に上がる。
そしてここからは、梁の上を書斎に向けて這って行く。
鴬張りの廊下の天井裏を見ると、やはり撒菱や槍の罠だらけである。
朱鷺は、予想通りだったことに満足しながらも改めて警戒心を高めるのだった。
書斎の天井裏まで到達すると、天井板をずらし気配を確認する。
誰もいない。
襖を隔てた廊下に居るはずの寝ずの番の者に気取られぬよう,、細心の注意を払って畳に飛び降りた。
すぐさま床の間の横にある文箱を明かり障子の側に運び、中の書状を読む。
一通、二通、そしてついに三通目。
「徳川に対し、一大事を構えた暁には、、、。」
これだ。
これは、明らかに将軍家にたいする反逆だ。
朱鷺は、確信するとその書状を懐に仕舞い込んだ。
その時だった。
朱鷺の背後の襖が左右に大きく開かれた。
お万喜の方を中央に、十数人の下級武士が立ち並んでいた。
「やはりその書状が目当てじゃったか。それだけ分かればもう充分じゃ。皆の者この女狐を召し捕るのじゃ。」
お万喜の方が、そう命じる。
下級武士たちは帯刀しているものの、手にはそれぞれ当時の捕縛道具である三道具を手にしている。
朱鷺は、咄嗟に廊下側の襖に体当たりして廊下に出た。
一人で、多勢を相手にするときの鉄則である。
狭い通路に陣取れば、一時に複数人から攻撃を受ける可能性が低くなる。
寝間着姿の彼女は、刀剣の類を持っていない。
あるのは、帯に忍ばせた流星(棒型手裏剣)二個だけである。
お万喜の方は、さらに武士たちを鼓舞するように、
「殺してはならぬぞ、些か問いたいことがある。召し捕った者には褒美をとらせるぞ。」
と女には似つかわしくない大声で言い放った。
まず、刺股が朱鷺を狙う。
朱鷺は、簡単に手刀でかわした。
次は、突棒の突進だ。
朱鷺は跳躍すると、突棒の先端の丁の字部分に飛び乗り、床に落とさせる。
突いてきた下級武士は突棒を手放し、驚いたように後ずさる。
三人目は、袖絡を使ってきた。
この道具は、棒の先端についた針で、捕縛対象者の着物の袖を絡め取ることによって動きを封じるのだ。
朱鷺は絡んでしまった袖を肩から引きちぎり自由な動きを確保すると、この道具の操作者との間合いを一気に詰めた。
絡ませることに成功した下級武士は、一瞬油断したのか、唖然と朱鷺の動きを眺めていた。
いやむしろ、朱鷺の動きが速すぎたのかもしれない。
朱鷺の鋭い蹴りが、下級武士の股間に炸裂する。
裾の乱れなど、全く気にしない朱鷺だった。
どちらか一方の睾丸が潰されたのか、下級武士は獣じみた呻き声を上げながら仰向けに倒れた。
朱鷺は袖絡を拾い上げることで武器を得た。
薙刀術にも長けている朱鷺は、武器を手にすれば下級武士の十人などは敵ではなかった。
一人、また一人と下級武士が朱鷺に打ち据えられて倒れていく。
あまりの不甲斐なさに業を煮やしたお万喜の方が、一人の武士に命じる。
「加勢じゃ、加勢を頼んで参れ。」
命じられた武士が、一目散に武士の寝所に駆け出した。
恐れをなして攻め込んでこない武士たちを前に、朱鷺は帯から流星を一個取り出しお万喜の方目掛けて投げつけた。
敵方の最上位の者を狙う。
これも兵法の当然の常識である。
朱鷺は、流星の使い手だった。
手裏剣に殺傷能力はない。
ただし、戦意喪失と戦力を削ぐ効果はある。
鉄砲の入手が困難だったこの時代にこのような投擲武器は極めて有用だった。
その流星が右肩に命中し、「うッ」と悲鳴をを上げてお万喜の方は肩を押さえてその場にうずくまったが、
「何をしておる、早く皆でかかれ。」
と武士たちを焚きつけるのも忘れなかった。
仕方なく、武士たちが朱鷺に襲い掛かる。
朱鷺は息を切らすこともなく、一人一人確実に、正に薙ぎ倒していった。
呼吸の乱れはなかったが、激しい格闘のため前合わせがはだけ、こぼれんばかりの豊かな乳房の谷あいにうっすら汗が光っていた。
遠くから大勢の、足音が迫ってくる。
朱鷺は最後の一人を片付け終わると、退路を考えながら懐の書状の存在を確認した。
詰め所に戻って、鳩に書状を託す余裕などなかったのだ。
自分の手で、書状を持ち出す他道はなかった。
廊下を押し寄せてくる足音とは逆向きに朱鷺が走り出そうとした、その瞬間だった。
後手縛りの女を左手で抱え、右手の小刀をその女に向けている男が現れた。
「待てい。」
一喝するような声で朱鷺を呼び止める。
只ならぬ様子を感じ取った朱鷺が、思わず振り返った。
「その懐のものを返して貰おう。さもなくば、この者の命はないぞ。」
男が、小刀を女の首筋に近づける。
「ぁ、ツバメ!」
朱鷺が叫ぶ。
三ヶ月前にこの藩邸に潜り込んで、つなぎの着かなくなったお庭番である。
朱鷺と燕は、お庭番の家系に生まれ、鍛錬所でもいつも一緒だった。
生まれも一月と違わぬため、双子同然に育った。
一緒に山野を駆け回り、一緒に書を習い、剣術の稽古でも一緒に汗を流した。
仲の良さは、血を分けた兄弟以上だったかも知れぬ。
燕の顔や首は痣だらけだったが、見紛う筈もなかった。
三ヶ月もの長い間、燕は責め続けられたのだろう。
その辛苦を慮ると、朱鷺はとても辛かった。
「トキ、アタイに構うことないよ。お逃げ、早く。」
燕が、気丈に言う。
加勢が来る前にこの場を脱出しなければならないことは熟知していたが、朱鷺には自信があった。
目前の敵は、この男一人きりである。
帯には、もうひとつの流星が忍ばせてある。
ほんの一瞬の隙さえ見出せれば、流星で男を攻撃し燕を連れて逃げおおせることができるのだ。
朱鷺は男の身なりの良さから、家老であることを確信し、
「ふん、貴様がここの江戸家老か。」
と聞いた。
男は、
「いかにも、儂が肥前藩江戸家老・鍋島典膳じゃ。」
典膳の言葉が終るか終らぬうちに、燕はすっと腰を屈めて、典膳の左手をすり抜けた。
朱鷺が、目で合図を送っていたのだ。
慌てた典膳は、すぐさま燕を捕まえようとする。
しかし、朱鷺の投げた流星に右腕を射抜かれ、小刀を落としてしまった。
流星を投げた瞬間、典膳が小刀を落下させてしまうことを見越していた朱鷺は、三間ほどあった間合いを一瞬で無くし、典膳の鳩尾に拳をいれた。
典膳は、あえなく気絶する。
朱鷺は典膳の小刀を奪うと、燕の戒めを切り自由にした。
「大丈夫ツバメ。」
朱鷺の問いに、燕が無言で大きく頷く。
じっと燕の表情を見つめていた朱鷺が、燕の気力に安堵し、
「さ、急ぐよ。」
と踵を返した刹那だった。
朱鷺は、首の後ろにに小さい痛みを感じた直後、その場に崩れ落ちてしまった。
意識ははっきりしており、視覚や聴覚といった五感にも異常が感じられないのだが、とにかく四肢に力が入らないのだ、
朱鷺には、さっぱり訳が分からなかった。
只只、どうすることも出来なかったのである。
燕はというと、右手に鍼を持ち不敵な笑みを浮かべながら、倒れこんだ朱鷺を見下ろしていた。
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